新しい持統天皇像の結論
2020年 05月 09日
これまで述べた持統増は,従来のものと同じとは言えないですね。すでに見たように
首尾一貫した方針のもとに大仕事を成し遂げているからです。本ブログは持統について
本格的に論じようとしたものではありません。持統像の全体を明らかにするのは
大テーマであり、本ブログの目的とは異なります。また、持統についての全面的な議論は、
筆者の能力を超え手に余ります。ここでは本ブログの議論と関係すると考えられる一点に
絞って取り上げ、その結論を述べることにしましょう。
持統は天武のやり残した仕事を、ただ単に受け継いだというに止まらず、みごとに発展させ
て独自の考えに基づき成し遂げているといえます。その最大のものが従来の都とは
隔絶した規模の藤原宮都の造営と遷都です。この一点について持統は、次のように実施
しています。
①『書紀』の編纂を推進することで少しずつですが、確実にアマテラスの役割を大きく
しています。
②香具山に「天」を強調してアマテラスと結び付けています。
③香具山と藤原宮と初代天皇の神武の墓の位置を、春分・秋分の日における日出・日入と
関連づけ結び付けています。
④太陽の運行(特に日出)と香具山とアマテラスと伊勢神宮と宮都建設
(地鎮祭や遷都の行事)を結び付けました。
⑤先祖の墓(舒明陵や斉明陵)や夫(天武陵)や息子の草壁(束明神古墳)の墓や
父(天智陵)の墓の位置と、八角形の墓形を見事に宮都の構造に結び付けています。
⑥宮殿の大きさや位置を、香具山と太陽の運行(冬至・夏至など)に結び付けました。
⑦天皇の一代毎に宮殿を替えていた伝統(歴代遷宮)を廃止し、恒久化しました。
このように藤原京を造営しています。
藤原京の建設は中国の影響が強いといわれますが、そうではなく日本固有の
伝統的な考えに基づいているといえます。考えてみれば当然です。
都を造ったのは天武と持統で、天武は『記紀』の編纂を開始させ、持統は『書紀』の
編纂を推進しています。二人が日本初の正史の『書紀』に記載されている建国神話と
関連させて都を造るのも自然です。
総仕上げが持統自身の作品ではありませんが、『万葉集』巻第一の五二番歌
「藤原宮の御井の歌」です。天石屋戸隠れ神話と結びついた香具山の麓の中心地に
宮殿を建設し、天皇中心の集権国家を誰の目にも疑いの余地のないほどに
完成させた姿が詠われています。
持統は強引に自分の子孫へ皇位を継承させただけの人物ではありません。彼女の建設した
藤原宮の造営の意義は、法の制定と一体となって今日まで続く天皇制を確立させたことに
あるといっても過言ではないでしょう。大宝元年(七〇一)の元日朝賀の儀式で
大極殿院南門前にて「文物の儀ここに備われり」と宣言したとおりです。日本古代史上で
これほどの大仕事は他にあるでしょうか。
非常に立派な功績を残した天皇といえるでしょう。
ようやく終わることができました。長い間お読みいただいてありがとうございました
このブログはこれで終了です。またどこかでお会いしましょう。さようなら。